【MeからWeへ】「私の」目的を超えて「私たちの」目的を生きるための視座の転換

こんにちは、YURIA Leeです。

今朝、朝方に見ていた夢から醒めるとき、
【Me】の文字が大きく上下回転して、
【We】になるイメージを見ました。

それとともに、はっきりと言葉で
もう【私】ではなく【私たち】の時代
というメッセージを受け取りました。

そのために、今まで見ていた世界の視座を
「180度ひっくり返す必要がある」という
意味なのかもしれない…と感じました。

視座をひっくり返す・・・。

「世界をどう見ているか?」という視座は、
「私という存在をどう認識しているか?」
という自己認識の視座と、そっくりそのまま
呼応しているなぁとつくづく思うわけです。

最近学んでいるヌーソロジー的な観点では、
メビウスの球体のように重なる2つの
「自己」と「他者」を併せ持った存在が
「わたし」であるという自己認識がまさに、

【Me】がひっくり返って【We】に転じる
同じことの表と裏をあらわしているのでは?
と感じ、このことについてもう少し、
掘り下げて考えてみたいと思いました。

【Me: 自我】の解体とその後
【We: 本来の自分】の再構築

このブログでも度々書いていますが、
「自我と自分そのものを分ける」ことを
「自我の解体」と呼んでいます。

ここ2年間、徹底して取り組んできたこと。
それがまさに「自我の解体作業」でした。

正直もう、飽きるくらいうんざりしつつ、
地道に諦めずに続けてきたことは、
やはり無駄ではなかったな~と実感中です。

社会に参画する一員として生きる以上、
日常的に使わざるをえない一人称「私!」

「私はこういう者で、仕事は〇〇してます」
「私は〇〇な人間で、性格は△△です」
「私には〇人の子どもがいます」
「私の夫は〇〇で働いています」

コミュニケーションの便宜上とはいえ、
こうやって「ワタシ」という言葉を使って、
自分にラベル付け・定義づけした、
ありとあらゆる自己認識の設定と枠組みが、
昔から本当に苦手でした。

自己紹介を要する場面ではいつも、
こういった言葉を話しながらも、
背中がむず痒くなる感覚を覚えていました。

「私=Me」という自我(エゴ)意識は、
箱の中に押し込められるような窮屈さと、
不自由さを覚えて疲れるのでした。

しかし、「自我」と「自分そのもの」を
明確に分けて、それぞれの存在を
認めることができれば、必要以上に
不自由さを感じることもなくなります。

自我が「私」なのではない。

本来の「私そのもの」は、
自我以上の意識本体である。

そうはっきりと認識してからは、
自我の箱の中から、自分を解放することも
徐々にできるようになりました。

そして、今朝方の夢から受け取った、
インスピレーションで試してみたのです。

【Me】を一人称複数の【We】に変えた。
【私】の視点から【私たち】の視点へ。

たったそれだけで、
劇的に、軽く、楽になりました!

【Me】が【We】になるだけで、
箱の中で疲弊していた精神が羽ばたいて、
広い空を飛び回れるほどの勢いで、
あ~なんだ全然自由だし、ラクだった~!

視座が変わるって、こういう感覚だったと
改めて思い出しました。

この視点の転換から気づいたことは、

【We】は「あなた」と「私」という
別々の人間同士が寄り集まっている、
という単純な物理構造の話ではなくて、

「あなたと私」で初めて成り立つ精神。
それこそが、本来の自分の精神構造だと。

本来の自分の精神は、はじめから
「私たち」として存在しているから、
「私が!私が!」なこだわりも何もない。

「私たち」で生きる自分
【We】を再構築する。

それは、本来の自分を取り戻す作業そのものでした。

「あなたとは違うんです…!」
と言いたくなる時は(笑)

福田康夫元首相の有名な迷言
「あなたとは違うんです」

もう少し乱暴な言い方で言うと、
「お前とは違うんだよバーカ!」
になるのかな(笑)

人に対してこう言いたくなるとき、
たまにはあると思います。

「私たち」の視座で生きていても、
あなたと私が違うことは当たり前。

その違いを「どう捉えるか」に、
【Me】と【We】の世界観の違いが
顕著になってくると思います。

★【Me】の自我で生きる世界では、
「私」は「あなた」とは絶対に違う!
という分離感覚が絶対的に強いので、
他人の事はまさに「他人事(ひとごと)」

自分や他人のことを「精神」ではなく、
この身体の方にある「肉体の塊だ」と
思い込む傾向が強くあります。

★【We】の精神で生きる世界では、
「違うからこそ面白い!」のであって、
他人事も「自分事(じぶんごと)」
置き換えて向き合える好奇心と、
内的なスペースが生まれている状態。

 【Meの世界】の行動動機は大体:

  • 「私が他人から良い評価を貰うため」
  • 「私が正しいと認めてもらうため」
  • 「私ができるだけ利益を得るため」
  • 「私が私自身を素敵だと思いたいため」

自我/エゴの目的は生存し続けること。

「私という存在の輪郭を明確にして、
他者や社会から認めてもらいたい」
と願う承認欲求がしぶとい訳は、
エゴの生存欲求と直結しているから。

人間として生きている以上、
「自我の承認欲求」とは大なり小なり、
生涯つき合っていくことになるでしょう。

それでも、自我の分離意識に閉じ籠って、
猛烈に「あなたとは違うんです!!」
と言いたくなるときは、そっと笑って、
本来の自分を思い出せるように。

本来の自分を思い出すことは、
「私たち」である自分に還ること。

 【Weの世界】の行動動機は大体:

  • 「私たちにとって良い選択か?」
  • 「私たちにとって利益になるか?」
  • 「私たちがより良くなる方向性か?」

自分そのものが、「あなたと私」で
成り立つと知っている意識状態なので、
【We】が主役の世界においては、
「他人事(ひとごと)」という概念は
厳密な意味で、成り立たなくなります。

一対多のピラミッド構造から
一対一の円環構造へ

【Meの世界】と【Weの世界】の違いに
それぞれ思いを馳せていたところ、
幾何学的なイメージが想起されました。

★【Me】の精神世界はピラミッド構造 ★

私たちが自我で生きているとき、
「私」と「私以外のその他大勢の人」
という一対多の精神構造がデフォルトです。

会社組織、コミュニティ、宗教、国家。

どれを取っても、何らかの「善し」とされる
価値観や理想を頂点に、トップにリーダー、
下部には支配する人とされる人がいて、
ピラミッド型のシステムになっています。

自我の「私」は「その他大勢の中の1人」
なので、 設定された枠組みの中で、
自分の立ち位置を上下左右に移動します。

「私より偉い人」とか「すごい人」は
常に自分の上部に居て、
自分はピラミッド構造の下部のほうから
上を目指して努力する、という構図。

何が善いとか何が優れているかの設定は、
各ピラミッドを構成する誰かの価値観。

その価値観の内部でいくらがんばっても、
本当の意味で満たされることはない。

そもそもの構造自体に「善悪・優劣」の
二元論的精神が組み込まれているから。

近年盛んなスピリチュアルビジネスなども、
組織形態としてこのようなピラミッド構造
になっている組織・団体がほとんどです。

主宰側がどんなに善意で展開したとしても、
集金システムとしてピラミッド構成になり、
参加者の自我の承認欲求を刺激する。

コミュニティからの承認が得られ、
一時的に自我が満たされる。
またお金を払って講座などに参加する。
その繰り返しのループから抜けられない、
というケースも多々あると思います。

何を隠そう、かつては私も嵌りましたから、
その心理と構造はとてもよく分かります。

何かに依存しているとき、人の精神は
ピラミッド構造の内部に嵌っています。

★【We】の精神世界は双対の円環構造 ★

心から満たされ、幸せな人間関係を築く
精神幾何学があるとすれば、

それはこの2つの重なるリングのような、
双対的な円環構造ではないかと思います。

「自分はその他大勢の中の1人である」
という実体感覚から脱け出して、
いま本当の意味で、ひとりひとりの人間と
対等に向き合うこと。

私は、私という1つの宇宙の
円環を
形創る創造者である。

と同時に、目の前の他者もまた、
その方の宇宙円環の創造者である。

全ては、一対一の関係性の連なりであり、
それは一対一の神と神の関係性でもある。

フラワー・オブ・ライフの宇宙幾何学。

自分はもちろん、自分以外の全生命もまた、
霊的存在であり、創造主であることを
はっきりと想い出せる状態。

目の前にいる人は、神である。

宗教的な意味合いや信条ではなく、
幾何学的な思考と理解として、
それが腑に落ちるようになってくる。

自分の円環の中心点が、相手の円の円周となると同時に、 相手の円環の中心点が、自分の円の円周となる。

私の個人セッションを受けてくださる方から
お話を伺う中で、最も多い質問の一つに、

『私は何者なのか?知りたい』
『私の使命は何か?知りたい』

という質問、リクエストがあります。

色々と精神世界の学びを深める中で、
「私は結局誰で、何をすべきなのか?」
「自分が本当には何をしたいのか?」
という内的な問いかけを頻繁に行うも、

自分で考えているだけではどうにもこうにも
煮詰まって、答えが出ず悩んでいる、
という方が多くいらっしゃいます。

そういった方のお悩みに対して、
この記事が少しは役に立つかもしれません。

「私が何者であるかを明確にしたい」
「私が何者かを説明したい」もしくは、
「定義づけたい」というニーズの根底に在る

「私!=Me」なる自我の承認欲求を、
まず自覚し、そこから自由になること。

何よりもまずはここ!
ここが一番、厄介だから。

「自分が何者であるか」を思い出すことは、
逆説的に聞こえるかもしれませんが、

「何者でもない自分」に還ることです。

★「私は誰ですか?」という質問には、
「あなたはあなたの宇宙の創造者です」
と私は答えます。

★「私の使命は何ですか?」という質問には
「あなたが生きる喜びを実行すること」
と私は答えると思います。

「やらねばならないこと」とか、
「外側から与えられた使命」
みたいなものは、実はどこにもありません。

「あなたが自発的にやりたいこと」
「自分でやると決めること」があるだけ。
それを叶えていくだけ。

他人に承認されるためではなく、
純粋に心から好きなこと。
「自分が何に喜びを感じるか?」を知り、
それを実行することが、私たちの使命です。

「私の目的」を超えて、やがて
「私たちの目的」を生き始める。

自分の円の中心点が、相手の円周となり、
相手の円の中心点が、自分の円周となる。

メビウスの球体のように交わる
2つの宇宙が、それぞれの
失われていた半身を呼び醒ます。

こうなってくると、目の前にいる他者は、
ニーズを満たし合う取引相手ではなく、
対等な関係性を築く対話相手になる。

取引ではなく、対話する。

ただそこに在る、目の前の存在の、
神聖なる霊性と恩恵に気づくとき、

自らの内側にも目醒めた、
「内なる神」をはっきりと思い出す。

「自己」と「他者」を併せ持った存在が
「わたし」であるという自己認識。

この出発点からはじめて、
「能動的知性を目覚めさせること」が
本当の意味でできるような気がします。

夢から受け取ったメッセージを
つらつらと紐解いていったら、
今日はこんな記事になりました。

最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。

YURIA Lee

2 件のコメント

  • 初めまして、MEGUMIです。
    素敵なメッセージをありがとうございます。
    ちなみに英語版はございませんか?
    お時間ある時に、お答えいただけたらと思います。
    ありがとうございます。

    • Megumiさん、コメントありがとうございます!
      英語版は今のところ無いのです。
      ゆくゆくは創っていきたいと思っています!
      ひと言いただけるだけで、本当に励みになります。
      こちらこそありがとうございます。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    1984年、愛知県生まれ。シンガポール在住15年になる一児の母。宇宙意識研究家、フリーライター、組織変革コンサルタント。ひとりひとりが自分の本質へと還る旅を応援するラーニングサロン『Art of Life Script 』代表。個人向けにはありのままのユニークな可能性を拓く個人コンサルテーションを、組織向けには組織としてのパフォーマンスを向上させる組織コンサルテーションを提供している。