明日死んでも大丈夫。自分なりの死生観を持って生きること

こんにちは、YURIA Leeです。

気が付けばあっという間に大晦日。

自分の『内なる双子』について前回、
記事を書いてから、何だか嬉しい事に
夫婦関係に前向きな影響がありました。

アマナとカムナの愛の物語は「私」と「もうひとりの私」の物語でもある

2018.12.14

私は普段、夫にこじらせた態度を取りがちで
素直な愛情表現ができなかったのです。

それが、自分って本来ひとりではなくて、
双子だったんだな~と思い出してから、

別次元に移動したのかな??と思うくらい、
私から「素直に愛情表現する」ことが、
抵抗なくすーっとできるようになりました。

無駄にクールな妻ぶるのを諦めて、
夫に好き好き攻撃をするようになり(笑)

今朝、夫を送り出してから急にふと、

(ちなみにシンガポールは大晦日も無慈悲に通常出勤)

「私、明日死んでも後悔しないな」

と強烈に思えたんです。

いきなり、突然にぶわっと!

ここまではっきり確信できたのは初めてで、

明日死んでも大丈夫だけど、
<今日もちゃんと生かされている>

その当たり前ではない命が本当に有難くて、
胸の中心から涙がどっと込み上げました。

自分の気持ちを尊重する

なぜ、そう思えたんだろう??と、

自分に問いかけてみたら。

「今日、私が」伝えたいと思った愛を、
大切な人に伝えられたと思ったからでした。

それは多分、私の独り善がりな方法で、
相手が欲しい伝え方でもないかも知れない。
でもたとえ、そうであったとしても。

先日、夫が誕生日を迎え、
そのとき手紙を書いたのですね。

出会ってから5年間のこと。
私が夫の「何にどれだけ感謝しているか」
を具体的に、沢山言葉にして伝えました。

書いているうちにどんどん、
自分の本当の気持ちが分かってきて、
結果的に長い手紙になってしまった。

夫は、言葉やスキンシップよりも、
「行動」で愛を受け取りたい人。

「愛してるよ」と言われるよりも、
無言でも何か彼を想って行動してくれたら、
それが一番嬉しい人。

だから長い手紙は必要ないかもだけど、
「言葉で伝えたい」という自分の気持ちを
尊重できたことが、嬉しかった。

夫は別に欲していないかも知れないが、
スキンシップをしたい私自身から、
素直にできることも、嬉しかった。

息子には、毎朝毎晩、ハグをして、
まるでシャワーを浴びせるように
「愛してるよ、大好きだよ」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
という言葉をしつこくしつこく(笑)
これでもかっ!と伝えています。
私が言いたくてたまらないから。

離れて暮らしている両親や家族には、
毎年、節目に送る手紙やカードに、
普段伝えきれなかった言葉たちを、
できる限り載せて、伝えています。

もちろん、明日死ぬとしたら、
息子にビデオメッセージも撮りたいし、
伝えたいことは正直山ほどあるけれど。

少なくとも今日、伝えたいその思いを
自分なりの言葉や行動で、
素直に表現してもいいと許せたら。

この先何があろうと、
絶対に大丈夫なんだと、思います。

自分なりの方法は、言葉でも、
心を込めた料理でも、無言のハグでも、
傍にいて話を聴くでも、何でも。

相手には伝わらなかったとしても、
「伝えようとしたこと」それだけで充分。

たったそれだけ出来ていれば、
明日死んでも何の悔いもない。

人間にとって最大の後悔は、
愛する人に、思いを伝えなかったこと。

本当はすごくすごく、愛していたし、
すごくすごく、ありがとうだったのに。
何でもっと、ちゃんと伝えなかったのか。

伝えるチャンスは、ずっとあったのに。
なんで当たり前のことなんか、
ひとつも無いって気づけなかったのか。

明日が来るのは、全然当たり前じゃない。

「ありがとう」は別にわざわざ、
伝えなきゃいけないものではないし、
押し売りされるものでもないから、
ぶっちゃけ伝えなくても、全然いいのだ。

だけど自分では気づかないくらい本当は、
一番伝えたいことだった、と気づいた。

私は明日死んでもいいように、
こうして書いているのだと思います。

私と関わってくれたことが嬉しい。
そのことに、本当ありがとうと言いたい。

「死んでも大丈夫」と思えると
生きることが格段に愉しくなる

だけどね、その「ありがとう」すら、
伝えるチャンスなくあっけなく死んでも、

それでもまだ、安心してください!!
大丈夫ですよ!!!!と思っています。

死んだ後に伝えることだってできるし、
死んだ後に受け取ることだってできる。

遅すぎることって、本当に無いです。

死んじゃったら、自分の親や家族と、
コミュニケーションできない??

できるよ♡

互いがしたいと思ったら、いつでもできる。
だから心配しなくていい。

まぁ、生きてる時のようなノリと状況で、
目の前で会話はできないけどね。

でもだから、生きているうちに、
こういう話を大切な人とできていると、
尚良いのではないかにゃと思います。

「あの人に、感謝を伝え切れなかったな~」
ともし思ったら、今から伝えてみよう。
今からでも、全然遅くはないよ。
肉体が消えても、伝えることはできるから。

私がこのブログやセッションを通して
活動している根底にある思いは、

「死んだらどうなるの?」
「死んだら終わりなの?」

という漠然とした不安や諦めに対して、

「死んでも全然大丈夫だよ☆
むしろもっと大丈夫になるよ!」

ということを伝えたいんだなと、
最近はっきりと気づきました。

そんでさらにお節介にも伝えたいのは、

「失敗しても平気だから、
深刻にならなくても大丈夫。

死んでも大丈夫だからこそ、
生きることを真剣に愉しも♡」

ということなんだな~と。

いやいや、死んでないお前が大丈夫☆
とか呑気に言っても、根拠もないし、
説得力ないわー!って感じなんだけど、

適当にただ暴言を吐いているのではなく、
人の死を軽んじているわけでもなく、
ましてや自死を推奨する意図でもない。

曲がりなりにも長年、<死とは何か>
ということに向き合い続けた結果、
確信を得たことのひとつが、
<死んでも『私』は続く>ということ。

「死んだら終わり」じゃないから、
「今をどう生きるか」が、
リアルに浮き彫りになってくる。

少し前に、ネットやTVで話題になり、
『死ぬこと以外かすり傷』というタイトルの
書籍がベストセラーになったようで、
チラチラ目にする機会があったのですが・・

タイトルに違和感がもう・・・
あり過ぎて!!(笑)

書籍の内容は存じ上げないので、
内容を否定するものでは全然ないのですが、

それを言うなら『生きてる以外かすり傷』
でないの??っと思わず突っ込みたく。

この著者の方が、死ぬことを文字通り
「致命傷」だと捉えているということ
だけは、伝わってきました。

「死んだら全部終わりでしょ。
だったら自由に生きたらいい」

この発想には、<死とは何か>という
視点が欠落しているのではないかな?

「死」を考えること無しに、
生きることの本質は語れない気がします。

死ぬことは悪いことでも、
悲劇でも、存在の終わりでもない。

生と死は、めぐり巡る。

命の循環に畏敬の念があればこそ、
生きることも死ぬことも、同じだけ尊い。

「死にたい」と思うことは
異常ではない

私のセッションを受けてくださる方からも、
意外とよくされる質問が、

「気分が落ち込むとすぐ『死にたい』と
思うんですけど、これって異常ですか?

死ぬほど大袈裟な理由でもないのに、
『死にたい』なんて、甘えですか?」

この問いに対する私の回答:

「いや、むしろ正常です」

私もここ最近は全く思わなくなりましたが、
数年前まで普通に、情緒不安定になるとすぐ
「あ~もう死にたい」と思ってましたよ。

『死にたい』はつまり、
「本来の自分に戻りたい」
「本来の自分で生きたい」

と同義なのです。

だから、甘えとは少し違います。

どこかで「本来の自分ではない」と
感じるから、それが苦しいのであって、
別に消えて無くなりたいわけではない。

本来の自分に戻れば、「死にたい」の
ニーズも昇華され、必ず大丈夫になります。

「死にたい」と言うといかにも、
「ネガティブな事!」と捉えられがちで、
「メンヘラやばい」みたいな対応されたり、
腫れ物を触るようにタブー視されがちです。

人知れず心で「死にたい」と思っていても、
口には出せずに鬱になる人もいます。

「こんなに恵まれているのに、
死にたいなんて私は異常なのか」とか、

「パートナーが死にたいと口走るから、
心療内科を受診させた方がいいのか」とか。

どれも本質からズレているのは、
そもそも、あなたにとって、

<死ぬとはどういうことですか?>という
問いが、本気で掘り下げられていないこと。

自分なりにとことん考え、
とことん言語化できていないだけなのです。

自分なりの死生観を持つこと。

★あなたにとって、死とは何ですか?

★死ぬことについて、どう感じますか?

どう生きれたら、幸せですか?

森羅万象を創る、渦巻きの回転

私にとっての死生観を表現するなら、
例えば、こんな風になります。

生が時計回り(右回り)のエネルギーなら、
死は反時計回り(左回り)のエネルギー。

生が「畑を耕す私」なら、
死は「耕される畑」である。

生は「半分欠けていること」であり、
死は「欠けが統合されること」である。

生きている私と、死んでいる私は、
いつも逆方向に同じだけ回転している。

生きることも、死ぬことも、
同じくらい素敵でたのしみです。

回転、螺旋、渦巻き。

この宇宙を創り出す、円運動のはたらき。

凝縮するエネルギーと、
放出するエネルギー。

生きることが放電なら、
死ぬことは充電になる。

DNAの螺旋、この身体の細胞、
植物の新芽、バラの花びら。

台風の渦、鳴門の渦潮、
銀河の形状に至るまで。

森羅万象を創る「渦巻き」運動が、
生と死をつないでいると感じます。

満ちては欠ける、月のように。

仙骨を揺らし、髄液を潮流のように
無意識に満ち引きさせながら、
バランスを取る肉体の中の海で。

今日も古くなった細胞は静かに死んで、
新しい細胞が再生し、
気づかぬほど
小さく極微な生と死を繰り返して、
この命は「素直に」
繁茂しています。

いのちって本当に、素直なんですね。

素直さに勝る美徳はないというのは、
本当だと思います。

素直に生きて、素直に死にたい。

愛する人に、思いを伝えながら。

★あなたにとっての「生と死」を
言葉にするなら、どんな言葉になりますか?

2018年はまさに私にとって、
仮面で生きていた旧い自分が死んで、
初めて「本来の自分」に戻ることを
許せたような、記念すべき年でした。

ポツポツとしか発信していないにも関わらず
沢山の方がセッションを受けてくださり、
記事を読んでメッセージを送ってくださり、
本当に本当にありがとうございました。

何者でもない私と交流してくださったこと、
筆舌に尽くしがたい感謝でいっぱいです。

来年また新しく出会う方、再会する方、
今から楽しみで仕方ありません。

2019年が、あなたにとって、
光輝く奇跡の連続でありますように。

ゆりあより
愛を込めて

 

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ABOUTこの記事をかいた人

1984年、愛知県生まれ。シンガポール在住15年になる一児の母。宇宙意識研究家、フリーライター、組織変革コンサルタント。ひとりひとりが自分の本質へと還る旅を応援するラーニングサロン『Art of Life Script 』代表。個人向けにはありのままのユニークな可能性を拓く個人コンサルテーションを、組織向けには組織としてのパフォーマンスを向上させる組織コンサルテーションを提供している。