こんにちは、YURIAです。
つながり(結び)の取り戻し方
今日は、「孤独」というテーマについて、
私自身の所感を共有してみようと思います。
ここ最近、日本国内では著名な方々の訃報が立て続けに報道され、
様々な憶測記事が飛び交う中、「孤独」をめぐり巻き起こる、
個々人の心情や体験に、とりわけ目が向けられている時期ではないか思います。
そこで、私自身も今「孤独」について、何か声に出したいと感じました。
「孤独」は、人間にとって極めて個人的な体験でありながら、
決して個々人の体験だけで片付けられない、社会構造上の課題であると感じています。
ある女性は、幼い子ども2人を残し、自死を選んだという話を聞いたとき、
正直に言うと、私の中に、反射的にかすかな「怒り」の感情が湧き起こりました。
そしてそれは、次第に無視できない存在感をもって、沸々と主張を繰り返しました。
怒りというよりも、「憤り」に近い感覚。
何に対する「憤り」なのか?
しばらく忍耐し、その憤りと共に居ながら、内省の時間を持ちました。
まず最初に感じたのは、あくまで私の個人的価値観から想起されたものですが、
「子どもを守る大人の責任」がある種、放棄されたことへの憤りでした。
その女性自身が、おそらくそれまでは何よりも最優先にケアされていたであろう、大切な我が子の心と身体。
そんな「最愛」を守ることを放棄してまでも、自死という選択をせざるを得なかった状況と事実があった。
その状況を生み出した周囲の環境、システム、「社会構造」全体に対する、やり場のない憤りを感じました。
起こった事実は当然、誰のせいでもない。
そう、誰のせいでもない。
…いや、本当にそうだろうか?
誰かひとりのせいではない。
しかし同時にそれは、「私たち全員の選択の結果である」と、言えなくもないだろうか。
全ては有機的に、つながり合っている。
選択の連続があり、結果がある。
時間を置いて見ていくと。
私の中に起こった本当の憤りは、
「自分自身」に対するものでした。
この社会構造そのものを創っている構成メンバー、ひとりの人間として。
今この瞬間も、自死という選択が社会のどこかで繰り返され、残された家族は壮絶な傷と痛みに苦しむ。
この状況に知らぬ間に加担すらしながら、
自身の無知や無関心を自覚しないままで、
孤独について語る言葉を持たず、何ら行動を起こしてこなかった、自分。
たとえ地球上の全人類を責めても、彼らが愛する人の肉体は、もう還ってこない。
絶叫に近い「怒り」の下には、やがて、
「悲しみ」のように感じられるものと、
「絶望」のように感じられるものが在り。
ブラックホールのような「孤独」は、
人に言語化できない凄惨な痛みを体験させ、
「生きる気力」を吸い尽くす力がある。
幸せなはずなのに、死にたくなる。
死への渇望は、あまりにも身近にある。
分かり過ぎるほど分かるからこそ、黙っていないで、声を出さなければと考えました。
この世界で、つながり(結び)を取り戻す方法は、確実に沢山あり、
今地球上の大勢の人々が、自分なりの言葉や行動で、懸命にそれらを伝えようとしています。
私なりの言葉で伝えるとすれば。
つながり(結び)とはそもそも、素粒子の構造であり、万物の法則であるから、
あなたがたとえ強烈に「孤独」を望んだとしても、本来的に私たちは「孤独」に成りようがない宿命であるということ。
あなたと「繋がっていない」人やものなど、厳密には、初めから1つも存在しないこと。
あなたの「孤独」と私の「孤独」は、感じ方は違えど、根本的には同じものであり、同じ「それ」を別の側面から共有していること。
お互いに顔なども知らない我々ですが、何にせよ、嫌でもつながり合っているのです。
自分がたった独りで、人知れず抱えていると錯覚しがちなこの「孤独」は、決してひとりひとり固有の絶望ではない。
孤独ですら、あなたと私とをつなぐ、「結び目」になっている。
そのことを、はっきりと想い出すのです。
これは、そのように信じる、信じないの感情論ではなく、
本来人間ひとりひとりに既に備わっている、社会的な知性を取り戻す作業なのではないかと感じます。
「分断」の前提で生きることを終わりにし、
「結び」の前提でこの世界を生き始めることは、大規模なパラダイムシフトです。
社会に対する、認識の前提が変わることで、選択する行動ひとつも変わっていくでしょう。
誰かひとりが「結び目」を取り戻すと、社会全体の構造にも、確実に影響を与えます。
これは全く、大げさな話ではなく。
それでも「理解されないこと」への怖れを乗り越える
私がいくら、つながりの結び目を取り戻したところで、それでもやはり他人から「理解されないこと」は頻繁に起こります。
理解されないだけならまだしも、辛辣な批判をされることもあります。
また私自身が逆に、誰かを誤解し、悪意をもった批判をすることも、多々あります。
正直言って、ほぼ毎日、他者批判を繰り返しています。
知らないこと、意味が分からないこと、得体の知れないことを、人は本能的に怖れます。
相手の考えていることが理解できないし、相手からも理解されている気がしない。
そこに「怖れ」が生まれ、「分断」が生まれ、「拒絶」が生まれます。
最も近い存在であるパートナーですら、分かり合えない領域があるくらいだから、ましてや他人と分かり合えるとも思えない。
はじめから、わかり合いたいとも思わない人も、いるでしょう。
しかしその「分断」の根底には、どこか
「同じ怖れ」が在るように、私には思えてならないのです。
私たちが何か自己表現をするとき、自分にとって2番目か3番目くらい以降に大切なことは、抵抗なくすんなり表現できても、
自分にとって「いちばん大切なこと」を表現することは、ひどく困難に感じます。
それはなぜかと言うと、もしあなたが「いちばん大切なこと」を勇気をもって表現したあかつきに、
誰からも理解されないどころか、もしその「最も大切なこと」をズタズタに批判されてしまったら??
もはや自分は、立ち直れないくらいに傷つくだろうし、想像するとあまりにも怖くて、勇気が持てない。
だから、自分がこの人生で「最も表現したいこと」を表現することには、とてつもない勇気を要する。
それは皆、多かれ少なかれ、きっと同じで。
「理解されないこと」への怖さは、皆同じ。
同じ怖れが、あなたと私とをつなぐ、「結び目」になっている。
大人も、子どもも、きっと持っている。
人類共通の怖れなのだろう。
だからまず、人を知りたいと思う。
誰かが生きることを諦めてしまう前に、対話のチャンスをつなぎたいと思う。
子どもを守る大人同士の社会構造として、まずその親を守るセーフティネットが必須なのだと思います。
パートナーや近しい家族限定の、閉じたネットワークだけでは不十分で、
できるだけ多くの人に開かれたネットワークや、コミュニティとつながることが、望ましいです。
特に有名人の方は、メンタルの深い部分を信頼して共有できる人物が周りにいない場合、
どこにも助けを求めるチャンスがないまま、状況が悪化していくケースが多いと思います。
どんなに社会的に成功していても、
その人が「本当に表現したいこと」を心から表現できていないとき、人の心は簡単に死んでいきます。
うわべの言葉ではなく、「本当の言葉」で話をすることを、自分に許す必要があります。
社会構造そのものが抱えている「孤独」という病理は、個人の心の強さ、弱さの問題ではないと私は考えています。
この病理の根底に在るのは、「万物はつながっている」という真理への、著しいまでの認識の欠如です。
あなたが属している共同体をよく理解するということ
これを読んでくださっているあなたはきっと、既に「結び目」を取り戻しながら、
この社会への自分自身の活かし方を、模索していらっしゃる方が多いと思います。
会社組織や何らかの共同体、コミュニティに所属しているという場合、
「社会の縮図」とも言えるその共同体について、新鮮な目線で学ぶ姿勢が助けになるでしょう。
それらの共同体に迎合するためではなく、
「壊すべきところ」と「守るべきところ」を、広い視野から見て見極められるようになるために。
たとえば私自身のテーマで言えば、会社組織はともすると、無味乾燥になりがちで、
「上品さ」を守るためには、個人個人の心の傷や、影の部分、ネガティブな要素を排除する傾向にあります。
「完璧だけど人間味のない理想」を掲げている会社組織の、いかに多いことか。
私が創りたいのは、完璧だけど人間味のない社会ではなくて、
「不完全でも生き生きとした、赦しのある社会」です。
そういった社会創造に貢献できる「血の通い合った組織」を創りたい。
そのために必要な、心地よい変化を起こしていくこと。
それが今の私が所属している会社組織にいる間に、果たしたい使命です。
人がひるんでしまうような深い闇や、ネガティブさを経験してきた人は、それらを受け入れる度量も同時に備わっています。
あなた自身がこれまでは甘んじて受け入れてきた、不要な抑圧や同調圧力を解放すること。
そして、本来の生命力を取り戻すこと。
結び目を探しながら、ときには一緒に歩んでいければと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
YURIA
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