アマナとカムナの愛の物語は「私」と「もうひとりの私」の物語でもある

こんにちは、YURIA Leeです。

時々ふとした瞬間に「生かされてるなぁ」
と強烈に感じることがあります。

クレヨンしんちゃんをTVで見ながら、
しんちゃんのお尻フリフリダンスに、
フリフリ反応する息子のひょうきんさに。

大好きなイチゴの最後の1個を、
「ママはい」と分けてくれるその優しさに。

息子を保育園に送りとどけたあと、
朝の強い日差しの下をてくてく歩きながら。

日向で毛づくろいをしている野良猫。
道路を清掃してくれている人たち。
毎日当たり前に来るバスや電車。

冷蔵庫には、昨夜喧嘩をした旦那氏が、
黙って用意してくれた私の食事。

少し前までは生きていたであろう、
美味しく調理された鶏と魚を頂く。

生かされている以外、何ものでもない日常。

私たちの命は、いつも大地から
押し上げられるように燃えている火で、

その火の裏側には必ず、
天から静かに落下している水が在る。

生かされているということは、
死んでいる命が必ず裏側に在るのだと。

私たちは結構すぐに、忘れてしまう。

私たち自身を形造る双子
火の少女アマナ、水の少年カムナ

縄文時代以前、上古代の日本で栄えたと
言われる『カタカムナ文明』では、

この宇宙の森羅万象の創造の本質は、
「アマ」と「カム」と呼ばれる双対的な
エネルギーの働きにあるとされていました。

アマの主「火のアマナ」と、
カムの主「水のカムナ」は、
2人で1つの双子でした。

アマナの中にカムナが居て、
カムナの中にアマナも居ました。
2人は全てにおいて正反対でした。

2人はどちらが欠けても、
お互いの存在が成り立たない
一心同体の双子。

地球に肉体を持って生まれるとき、
全ての人の中にいたアマとカムの双子は
二手に分かれることを選びました。

アマは目に見える現象の世界を、
カムは目に見えない潜象の世界を。

アマは弾けるような温かな生命力を。
カムは純粋で透明な冷たい悲しみを。

生まれたての赤ちゃんは、
純真無垢で可愛い、
爆発的なアマの生命力そのもの。

その立ち昇る生命の火を支えるのは、
天から墜落するような、
透明なカムの悲しみと愛。

ピチピチで新鮮なものが生まれるその裏に、
身を捧げて消えていった命が必ずある。

地球への冒険はハラハラドキドキの旅。
幾多の試練や危機が待ち構えています。

アマナは無邪気で天真爛漫でしたが、
時には傷つくこともあるでしょう。
地球で生きると決めたアマナのことを、
カムナは心から心配しました。

愛するアマナが安全に生きていけるように、
カムナは彼女の助けになろうと思いました。

アマナが地球で経験するであろう
痛みや悲しみは目には見えないから、
カムナは姿形をもたず、目に見えない世界で
彼女の負担を背負いたいと願いました。

一方、地球に降り立ったアマナには、
かつていたカムナの姿が見えません。

愛するアマナを支えるために彼は、
見えない世界に消え去りましたが、
本当はアマナの中でも外でも、
いつも一緒に喜怒哀楽を感じていました。

けれどもカムナの姿が全く見えず、
言葉を交わすこともできないアマナは、
寂しくて仕方ありません。

やがて長い年月が経ち、
かつてどこかに居た大切な自分の半身が、
消え去ってしまったという漠然とした
孤独を抱えつつも、アマナはもう、
カムナの存在を完全に忘れてしまいました。

しかしカムナは、無くなってはいません。

ただ目に見えない極小の素粒子となって、
アマナの体内や、周りの空気や物全てに、
霧のように溶け込んだのです。

素粒子の便利なところは、
どんな物にでも成れることでした。

大好きなアマナといつも一緒に居たい
カムナは、色々な物に成ってみました。

ときにはアマナが話す言葉に成り、
ときにはアマナが描く絵に成り、
ときにはアマナが弾くピアノの音色に成り、
彼女が笑う声や、流す涙にも成りました。

アマナがつらい気持ちのときには、
少しでも心が軽くなるように、
片時も離れずにカムナが支えていました。

ずっと傍についていました。

アマナの心が歩けなくなったときは、
カムナが代わりに背負って歩きました。

アマナは時々、不思議な気持ちがしました。

澄んだ空気が顔を撫でたとき。
美味しい料理を食べたとき。
心地良いソファに座っているとき。

誰かに包まれているような気がするのです。

けれどもそれが誰なのか、何なのか、
どうしてもはっきりとは思い出せません。

愛する人から存在を忘れ去られたカムナ。
しかし彼はそれも平気でした。

本当に愛する人のためなら、
自分は消えてもいいと思えたから。

アマナがもし光を忘れてしまっても、
光がちゃんと映える背景があればいい。

カムナは真っ暗な闇にも成りました。

自分の影は忘れられても構わない。
アマナが健やかに幸せに生きて欲しい。

それだけがカムナの切なる願いでした。

アマナは自分を醜いと思う時がありました。
カムナはその醜さこそ愛しいと思いました。

アマナは自分を汚いと思う時もありました。
カムナはその汚さを美しいと感じました。

カムナのひたむきで一途な愛に、
アマナがいつか気づく日が来るのを願って。

2人がまた1つに溶け合って、
お互いを失っていた年月を懐しめるように。

人間の中のアマとカム
私ともうひとりの私の物語

私たち人間は、女性でも男性でも、
アマとカムの両方を持ち合わせているのだと感じます。

あえて簡潔に表現するなら、

  • 自分が認識している自分=アマ
  • 自分が認識していない自分=カム
  • 生の力=アマ
  • 死の力=カム

と見ることもできるかもしれません。

アマナとカムナの物語は擬人化していますが
人間に当てはめると面白いなぁと思います。

アマナには「私」という個体認識があり、
カムナには「私」がありません。

アマには「私が何者か」は重要テーマです。

「私が」どう生きるか?
「私が」どんな価値観を持つか?
「私が」私で在ることにこだわりたいし、
「私を」理解されたいとも願います。

逆にカムにとっては「私が何者か」は
何ら重要ではなく、興味もありません。

カムの興味関心事は、
「アマがどうしたいか?」の一点のみ!
(もはや重度のストーカー・・・笑)

カムは私が「私で在ること」に
何のこだわりも執着もない状態でいて、
なおかつ「私は全て」だと知っているから、
変幻自在に何にでも成れるのでしょう。

カムを「死の力」と呼ぶ訳はそこです。

「死ぬことができる力」とは、
私というエゴ(自我)の檻から、
好きなときに精神を解き放てる自由のこと。

従来の科学一般常識ではそれは、
肉体が死んだ後もしくは生まれる前にしか
体験できない意識状態とされていました。

だから「死とは何か」となったとき、
「私が消えて無くなること」ではないか?
という漠然とした怖れとともに、
多くの人は死について思考することを止め、
信じる信じないの話になってしまいました。

しかし既に大勢の人が理解しているように、
「死」とは本来、もっと身近なものです。

死の意味が、肉体の死に限定されないとき、
私たちの精神にとっては「死」とは、
なくてはならない大切なものに変わります。

肉体を持って健康に生きながら、
同時に「死ぬこともできる」自由な精神。

『宇宙意識で生きる自分に還る』という
テーマで書き始めて約一年が経ちましたが、

私がずっと追及してきたことはこの、
「アマとカムの双子を取り戻すこと」
だったようにも思えるのです。

アマは、カムの存在なしに、
全体性を取り戻すことはあり得ないし、

カムもまた、アマの存在なしに、
全体に還ることはありませんでした。

アマとカムという名称に馴染みがない人は、
「私が知っている私と、知らない私」
に置き換えてみてください。

宇宙の森羅、全存在の中に、
双子のエネルギーが振り合っています。

私を生かすために、
喜んで死んでいるもうひとりの私の愛を、
本当の意味で思い出したとき。

全てが愛の表れでしかなかったことが、
とても受け止めきれない豪雨のように、
天からシャワーとなって降り注ぐのです。

それはもうとてもとても、
受け止めきれない無償の愛。

こんなにも深く、こんなにも長く、
自分から愛され続けていたことに、
ほとんど気づかなかったなんて・・・。

気づかない状況がシュール過ぎて、
ブラックコメディかと思うほどです。

カムを取り戻すということは、
自分を「この私」と呼ぶことにもはや、
執着しなくても良くなることでもあります。

アマとカムが合わさってこその自分だと
やっと思い出すことができたら、
自由なスピリットとして、
身軽に羽ばたけるようになるでしょう。

「私」という主体は、
言葉を話す人側=アマにあってもいいし、
話される言葉側=カムにあってもいい。

「私の」作品とか、
「私の」ブログとか、
「私の」ストーリーとか。

「私の私の」という自我の所有意識に
こだわる気持ちは、カムを忘れている状態。

私が「私」というこだわりを手放せた時、
やっと、本当に伝えたかった言葉が
風に乗って、言葉自身が行きたい場所に、
勝手に行くのかなと思っています。

あなたと私の交流は、
双子と双子の交流だから面白い

ブログをリニューアルしてから約一年経ち、
有難いことに、沢山の方々に出会う機会に恵まれました。

記事を読んでメッセージを送ってくださる方
個人セッションを受けてくださった方、
お話会に参加してくださった方。

そこから魂の旧友のように、
深い深い交流へと発展した方もいて。

筆舌に尽くしがたい感謝を感じています。

まだ私が「私、私」の自我に縛られながら、
エゴのストーリーや言葉に執着し、
葛藤しつつの発信であったときから、

双子を取り戻しつつの今に至るまで、
どんな時も応援してくださる方がいました。

こんなこと書いて、意味あるのかな?
と何度も思いましたし、今でも思います。

けれども今は、意味があるかないか、
決めるのは私ではないと思って書いてます。

言葉はそれを「発信した側」ではなくて、
「受け取った側」のためにあるもの。

だから凝りもせず、発信していきます。

このYURIA Leeという名の身体がある、
時間と空間に生きる人間として、
知っているアマと、知らないカムを
自分なりにブレンドさせながら。

私が知らない自分のカムは、
目の前のあなたや、色とりどりの物たちが
その姿形となって見せてくれるのです。

そしてあなたが知らないあなたのカムは、
ときには私の双子がその姿と成って、
あなたに見せることもきっとあるでしょう。

皆それぞれが違う双子のバランスを
生きていて、それが愛おしくて可愛い。

スピリットを取り戻すプロセスは最初、
ある意味怖い体験かも知れません。

「これが自分」だと頑なに信じてきた
自我の防波堤が、木端微塵に崩れ去り、
「自分が自分でなくなる」感覚は、
初めて経験する人には、恐怖だと思います。

そんなリスクを冒すくらいだったら、
自我の檻の内側にいたほうが安全だと
防衛本能が働くのも、無理はありません。

人は、経験したことのない未知のものを
本能的に「怖い」と感じます。

それがたとえ自分であっても、
「私が知らない私」は当然怖いわけです。
地球の常識や論理が通用しない、
得体の知れないヤツですから(笑)

怖くて当然!
でも怖くてもいいから、
未知を知る面白さを選びたい。

という物好きな人だけ、こんな記事を
最後まで読んでくださるのでしょう。

忘れていたカムを思い出すと、
自分の身に起こる事のその背後にある
意味を理解できるようになります。

あなたが、あなただけのカムを思い出し、
その内在空間の奥行きから、
新しくて面白い世界を体験していくこと。

そして私という自我の病から自由になり、
本当の意味で外の世界に触れること。

この記事が、そのきっかけに
少しでもつながれば幸いです。

今日も最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。

 

 

4 件のコメント

  • 貴方は自身のカムを知っているのですか?
    もし、知っているのであれば、自身のカムに逢える方法を教えて頂きたい。

    カムナとアマナの物語、何故か分かりませんが、涙が溢れて止まりません。

    ありがとうございました。

    • KENさま、コメントありがとうございます!拙い記事を読んでくださり、本当にありがとうございました。

      私が自分自身のカムについて知っているかは正直分からないのですが、カムとは、目の前に在る世界そのものなのだと感じています。

      自分が体験できること、見えること、触れられること、感じることの全て。それらが自身のカムなのではないかと、今の私は理解しています。

      ある意味、私たちは皆、自身のカムにはいつでも逢えているのだけど、ただそれに気づくか気づかないか・・・。

      カムに逢う唯一の方法は、「気づくこと」なのかなと。

  • 初めまして
    こちらの記事を読んで、わたしはずっとカムの意識を持って生きてきたんだなと思いました

  • 初めてコメントさせていただきます。
    つい数日前に、
    「わたしがずっと探していた王子様は、気づかなかっただけで目の前にいた。
    わたしの吸う空気の中に、飲む水の中に。わたしの感じる世界の全ての中にいたんだ。」
    と気づいて泣くという不思議な出来事がありました。
    今偶然こちらの記事に出会い、やっぱりそういうことだったんだと改めて腑に落ちました。
    わたしのカムナはわたしの世界であると同時に誰かの愛する何かにもなっているのですよね。わたしたちは全て繋がっていて、何も生み出していないように見えても、生きているだけで世界を生んでいるんだなあと思うようになりました。
    上手く表現できなくてすみません。
    素敵な記事をありがとうございました。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    1984年、愛知県生まれ。シンガポール在住15年になる一児の母。宇宙意識研究家、フリーライター、組織変革コンサルタント。ひとりひとりが自分の本質へと還る旅を応援するラーニングサロン『Art of Life Script 』代表。個人向けにはありのままのユニークな可能性を拓く個人コンサルテーションを、組織向けには組織としてのパフォーマンスを向上させる組織コンサルテーションを提供している。