言葉という「道具」を使い、私という「道」に成る

こんにちは、YURIA Leeです。

数カ月前『ヌーソロジー』と出会って以降、
関連書籍などを読み漁っています。

「ヌーソロジーって何それ、おいしいの?」
についてはまた後日、語らせてくださいぃ。

生命を思考する思考体系またはイデア論。

ヌーソロジーが提唱する宇宙観は面白く、
すっかり魅了され、嵌ってしまいました。

身近に、語り合える人は居まいか?!
かなり今、悶絶している状態です。

・・・とそんな前振りとは関係なく、
今日は「言葉」と「道」についてのお話。

どんなに薄っぺらい言葉でも、
使わないよりはいい。

薄っぺらくても、空っぽでもいいから、

言葉という「道具」をまず使わないと、
そもそも「道」が開かない。

「道」が開通していないと、
私にも、あなたにも、誰も辿り着けない。

そんなことを痛感する出来事がありました。

心には思いが沢山あるのに、

『上手く言葉にして伝えられない』

という経験、少なからずあると思います。

矛盾だらけの、意識世界のカオスの中から
「言葉」を紡ぎ出す作業は、四苦八苦。

「言葉」にした途端、

「何か違う」

「どこかズレてしまう」

そんな違和感を感じるあなたは、
至極に繊細で、まともなのだと思います。

「本当の思い」と「言葉」の間には、
いつも途方もない程の距離の開きがある。

お互い水星と冥王星に住んでるくらい、
遠距離恋愛状態です。両想いなのに。

その遠距離を跨いで何とか繋ぎ合わせよう、
とするのが「言語化」の仕事だとすると、
大変じゃないわけがないのです。。

それでも日々、私たちは
「言葉」という道具によって、
「思い」にカタチを与える。

まだ言葉になっていないものは、社会的には
『存在していないもの』と同義だから、

どれだけ沢山、あなたの心の中に在っても、
その思いが人から認知されることはない。

そしてそれは、認知されないからといって、
決して価値がないわけじゃない。

人から認知されてもされなくても、
もちろんいつだって素敵な価値がある。

だからわざわざ、そこに「言葉」を与えて、
誤解や批判をされたりするくらいなら、
黙ってそっとしておこう。

・・・となるのも、無理ないわけです。

思いを「言葉」にして表現したときに、
人に否定されたり、嘲笑われたり、
全く何も伝わらなかったり。

こてんぱんに傷ついた経験や、
ペコペコになるまで凹んだ経験。

逆に大切な誰かを傷つけた経験が、
あまりにも沢山あるからね。。

自分にとっていちばん大切なことは、
心の奥にしまって、人になんか語るまいと。

何も語らないで、無言でいることが
ある意味では美徳とされた時代もあり、

「男は黙って」じゃないけれど、
不言実行の人は賢いとされる風潮も手伝って

本質的なことを「語らない」
「言葉にしない」を正当化するうちに、

いざ本当のことを「言葉」にしようとしても
それができなくなっている。

「表現する」ということは、
自分の浅はかさとか、薄っぺらさとか、
馬鹿さ加減ももう、残念ながら
全部さらけ出すことにもなってくる。

本人は隠しているつもりでも、
表現した時点で、それは漏れ出てしまう。

だけどそうやってさらけ出された愚かさが、
人の心を打つことだってあるんです。

だからもういいから勇気を出して、
「わたしの言葉」を使おうではないか。

『ちょっと何言ってるか、分から
ないですね』と言われても 笑。

先日、友人の紹介でとあるご縁があり、
私のことを深くは知らない初対面の女性に、
仕事についての相談をさせていただく機会がありました。

辛口フィードバックをくださいと
依頼したうえでのやり取りだったのですが、

『悪いけど、言っていい?

ゆりあさんって結局、
何をしたい人なのか分からない。

飾り言葉や修飾語が多くて、
何が言いたいのか見えない』

と告げられて終わるという、
散々な結果でした(笑)

その女性はビジネスコンサルをされていて、

「あなたのセッションを受けると、
どんなメリットがありますか?」

「あなたのセッションを受けて、実際に成果
が出た方の事例トップ3を教えてください」

等々、当然聞かれるような質問をされて、
答えていたのですが、

続いて畳み掛けるようにその方から、

「1分間で、自己紹介をしてください」

「あなたの強みを3つ、教えてください」

と会社の面接のような質問をされたとき、

私の中でとっさの反応として、きゅーっと
喉のチャクラが詰まるような感覚があり、

そのまま言葉だけは口から出ていても、
言葉に「エネルギーが乗っていない」
ことは自分でも明らかでした。

すると、静かに聞いていたその方がひと言。

ゆりあさんの言葉、入ってこないです。

本当にやりたいことが何か分からないし、

そんな状態の人がセッションしても、
お客様を迷わせるだけだと思います』

なるほど・・・と思いました。

そういう風に受け取られたのかぁという、
一抹の悲しさはありながらも、

真摯に自己表現しきれなかった自覚があり、
そう反応されても無理はないと思いました。

人はいとも簡単に、「1分間」とか
「3つ」という限られた枠組みの中で、

受け取った極小サイズの情報をもとに、
人や物をあっさりジャッジする生き物だし、

そうするしかない局面の方が多いからこそ、
そこであなたは、

自分の「思い」をどう表現するのか?

どんな「言葉」で、何を語るのか?

どんな「行動」に、移しているのか?

と突き付けられたとき、

普段から「言葉」をどう扱い、
それをどう「行動」と結びつけているのか、
という自己鍛錬への姿勢と度合いはもはや、
ぐうの音も出ないほど如実に現れます。

「言葉」に説得力があるか・ないかは、
その言葉を本人が生きているか・いないか。

私が伝えたいコンセプトを、
本当に相手に「伝えたい」のなら、
私自身がそれを生きるしかないのですね。

『ゆりあってさ、聞こえのいい綺麗事とか、
理想論ばっか何かブログに書いてるけど、

自分がそれをできてないじゃん?

これは実際に、家族が私に言った言葉。

グサッと刺さる音が聞こえたかと思った。

私が私自身に思っていたことだから、
家族の口から「言わせた」だけとはいえ。

こういうことを言われると、
書くこと自体が怖くなったりもする。

そりゃ、そうだ。

完璧に実行できていることしか書くのが
NGなら、ほとんど何も書けないし(笑)

それでもなお、できる限りをもって
正直な言葉で自己表現をする人を、
社会は必要としているのだと思う。

「言葉」を与えると、誰かがその上を
好き勝手に歩ける「道」に成れるから。

言ってることと、やってることが違う?

私はそれが「悪いから絶対駄目!」
とは別に思わなくて、

ただ言動が一致している人の言葉の方が
届きやすいから、人に本気で届けたいなら、
そうした方がいいよねとは思っています。

「言葉」は個⼈と社会をつなぐ、創造の道具

書くことは「道路の開通工事」に似ていて。

道がないと、人と人は行き来が難しいけど、
道さえ作れば、誰かが通ってくれる。

まだ言葉を持たないものたちの世界に、
「あなた」や「私」の命の半身が、
眠っているような気がしています。

言葉を使うということはきっと、
そこに新たな道を作って、道に成ること。

まだ言葉を持たないものの世界には、
正しいも間違いも、理屈も何もない。

聖母マリアのような慈しみや、
尋常ではないほどの愛が
湧き上がってきたかと思えば、

次の瞬間にはもう、
獣が動物を捕って食らうかのごとく、
淡々とした殺意すら覚えたりもする。

見たことも聞いたこともないような、
血生臭い、本能的な獣性がそこにはある。

かと思えば、おふざけ全開の
不条理ギャグ漫画の世界に突入し、
ふざけた踊りや音楽が繰り広げられる。

残忍なのか、優しいのか、
えぐいのか、美しいのか、
真剣なのか、ふざけているのか、
馬鹿なのか、アホなのか・・・分からない。

インド映画なのか、
クラシック音楽なのか、
中国四千年の歴史なのか、
パタリロ!なのか、
ラシャーヌ!なのか、
馬鹿なのか、アホなのか、
とてもじゃないけど、判りようがない。

私にとって言葉を使うということは、

人間理性を飛び越えたところにある命の、
広大な無意識の領域から、
何兆分の1くらいの何か小さな、
兆し(思考)を取り出してくるような作業。

「何を大袈裟な・・・笑」と、
笑われるかもしれないけれど。

正直な話、それくらいもう、
よく分からないカオスなのです。

フランスのコンテンポラリー美術館で、
白い大壁に生肉がペタッと貼られていた。
真剣な面持ちで、それを眺める人たち。

私は笑いがこみ上げてくるのを感じた。

壁の生肉と、真顔の観察者たち。
ここにどんな言葉を付けられるだろう?

自分のユニークさは、
自分だけのもののような気がしても、
どこかで誰かが「言葉」を与えてくれたから
初めて認識できただけだったりもする。

私たちは「私」という個人でありながら、
同時に「個」を超越した意識世界に生きる。

私が今セッションでやっていることは、

全く異なる人間観や宇宙観をもつ、
私とクライアントさんの「個」の意識と
集合的無意識が混ざり合った空間で、
「言葉」という道具を使った2人による、
共創アートセッションのような活動です。

そのため、クライアントさんを
私が「迷わせる」とか「導く」とか、
私が「癒す」とか「成果を出す」という
概念の前提を初めからもっていません。

双対的にエネルギーを交流し合う中で、
必ず立ち現れてくるものがあり、
それを「言葉」に変換しているのです。

あなたが「言葉」を発すると、
そこには「道(通路)」ができます。

お互いが「道」に成ることで、
今まで開通していなかった道路を創る。

その過程では時には、
突如白い壁に貼られた生肉が現れて、
それが何なのか全く分からずに、
真剣な面持ちで「共に」眺めながら、
言葉を交わし合うこともあるかも知れない。

ひたすら真剣になればなるほど、
コミカルさが増していく。

何よりもまず「言葉」を解放すること。

そのために自由に活用してもらえるような、
創造空間を提供しています。

言葉によって創られる未来への道

私たちが「言葉の力」を実感するときは、
どんなときがあるだろう?

思うに、私たちが実現したいと思い描く
「個々の」未来のヴィジョンは
もはや、
「個人的なものではない」と知ったときではないかと。

私が信じたい未来のヴィジョンは、
どこかで誰かが信じたい未来の姿と、
確実に重なり繋がっているし。

あなたが信じたい未来にも、
私が心から賛同する部分が必ずどこかある。

以前の記事でも書いたけれど、
私が叶えたい未来の地球の姿は、

『飢餓、貧困、紛争がゼロになり、
誰もがお腹いっぱいで、安心できて、
心から平和を感じることができる世界』

私は、このヴィジョンが実現できたら
超嬉しいし、超幸せです♡

そしてこの私の個人的願いを
全く同じように願っている、
無数の人々が居ることも感じています。

その無数の人々と共有された未来には、
ぐるっと取り囲むように無数の道が
伸びてつながっているのを感じるのです。

大勢の人々に「叶えたい」という願いが
共有されるヴィジョンであればあるほど、
実際に実現する確率は上がります。

そこで「言葉の力」が本領発揮されたとき、

私たちひとり一人は微力でも、
未来を創るための確実な
ひとつの「道」に成れるはず。

私個人の人生は充分満たされているし、
これからも満たしていきたいと思うけど、

私たちはもう、「個」の意識を解放して、
社会と繋がる時代に入ってきた。

そのための「はじめの一歩」は、
まず言葉を解放することかなと思います。

「はじめに言葉ありき」の原則は
確かに怖いけど、シンプルにそうだから。

全ては自分と宇宙の間のこと。

だけどその自己完結した世界は、
「他者の存在」なくして成り立たない。

自己と他者をつなぐ最強のお助けマン、
それが「言葉」ではないかなと思います。

書いたり話したり何でもいいから、
自分の「本当の思い」を言語化して、
誰かに伝えてみよう。

その言葉が、あなたを未来に運んで行く。

その言葉が、あなたが出会いたい人に出会わせる。

その言葉が、あなたが忘れ去っていた、本当の望みへと向かわせる。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

1984年、愛知県生まれ。シンガポール在住15年になる一児の母。宇宙意識研究家、フリーライター、組織変革コンサルタント。ひとりひとりが自分の本質へと還る旅を応援するラーニングサロン『Art of Life Script 』代表。個人向けにはありのままのユニークな可能性を拓く個人コンサルテーションを、組織向けには組織としてのパフォーマンスを向上させる組織コンサルテーションを提供している。