魂(タマ)と魄(シイ)の霊(レイ)への統合 ― 自我の承認欲求からの脱出と本当の自由

こんにちは、YURIA Leeです。

以前、「魂(Soul)と霊(Spirit)の違いと関係性について理解を深める」という記事を書いたところ、

魂(Soul)と霊(Spirit)の違いと関係性について理解を深める

2018.05.25

「なるほど分かり易かった」
「長年の疑問が整理されました」
等の有難い反響メッセージを頂きました!

記事の感想メッセージって本当に、
心底嬉しいもので、ありがとうございます♡

その後、私の中でさらに洞察が深まったなぁ
と感じる部分が出てきたので、続きを書いてみたいと思います。

今回の記事は特に、
「人の評価や言葉がやたら気になる」という
自覚がある方に、私自身もそうだからこそ、
新しい視点を提供できたら嬉しいな~と思って書きました。

魂と霊の話をする前まず前提として、
『わたし』という「自我」の視点
から掘り下げていきたいと思います。

「私が」とか「私たちは」と言うとき、
私たち人間は常にこの『わたし』という
エゴ=自我性をベースに生きていますよね。

「自我」と「魂」と「霊」の関係性は
切っても切れない構造になっているから、
その繋がりを俯瞰して理解できると面白いし
何よりすごく助けになる!と思ってここにシェアします。

何の助けになるの??というとそれは、

自我の承認欲求に翻弄されることのない、
本当の「自由」を手に入れるための。

自分と上手に付き合う力を養うため、
と言い換えてもいいかも知れません。

目的はいたってシンプルで、
自由に生きる面白味を実感すること!

自分から自由になる、という感覚。

自由になれると、人生の妙味と趣深さ、
面白さや可愛さが、一段と味わいを増して
五感に響いてくるように感じるのです。

『わたし』から自由になって新しく、
『あなた』とまた出会い直す。

ここ数カ月の私自身のテーマでもあり、
この記事を書きながらワクワクしています。

自分の精神構造がどうなっているか?
をメタ認知できる内的識別力を育てること。

人間の謎多き精神構造「自我・魂・霊」
長いけど、面白いから(ほんとかよ)
ぜひ最後までついてきてねー!!

自我の承認欲求の根は深い
そこから自由になれるのか?

先日、岡崎直子さん主催による
『リベラルアーツ基礎講座』を受講した際、
★私たちにとって本当の自由とは何か?★
という問いがありました。

お金や時間の制約から自由になること
だけが本当の自由ではない。

本当の自由とは、
「この私を認めてほしい!」という
自我の承認欲求から自由になることだと。

まさしく、その通りだなぁと思いました。

見回してみると、私たちは一事が万事、
他者からの評価に晒されて生きています。

「仕事ができるか、できないか」
「伴侶に愛されているか、いないか」
「良い母親であるか、否か」
「人の役に立っているか、否か」
「美しいか、美しくないか」
「収入が多いか、少ないか」
エトセトラ、エトセトラ・・・。

身近なSNSの世界でも、
「いかに自分が毎日幸せであるか!」を
投稿し続ける人々と、彼らに「いいね!」
の祝福と賞賛を送り合う人々との、
ある種の承認欲求の満たし合いの場になっていますよね。

それ自体は全然悪いものではないし、
私自身も普通にSNSを利用する中で、
「いいね!」を送り送られしています。

人間なら誰もが持っている自然な欲求
「認められたい」と「認めたい」

とは言え、人とのやり取りにおいて、
温かいつながりや敬意を感じる一方で、

過剰なまでの「私を認めて!賞賛して!」
の承認ニーズをあからさまに感じる時、
げんなりと食傷気味になるのは、
恐らく私だけではないと思います。

猛烈な幸せキラキラアピール、
イラっとしませんか?

私はしょっちゅうします(笑)

世界経済は承認欲求への渇望で回っている、
と言っても過言ではないくらい今や、
猫も杓子も「私が!」「私が!」の世界。

この「イラッ」の正体は実は、
他人の幸せそれ自体への嫉妬というよりも、
「こんな幸せな私を褒めて!」=承認欲求
に対するイラッだったわけです。

それは、私自身の中にも同じようにある
<強烈な不自由さ>を想起させるから。

承認欲求自体には良いも悪いもない。

だけどじゃあ、何でそれが過剰になると、
こんなにも不自由さを生み出すのか?

★以下は『リベラルアーツ基礎講座』で
学んだ内容を私なりに消化したもののシェアになります。

(☆シェアの許可は岡崎直子さんから頂きました)

ひとつには、我の張り合いの中を
生きる私たち現代人の宿命として、
「承認されること」「社会的豊かさ」
密接に関わっていること。

「私が」社会に承認されることが、
経済的な豊かさと直結しているから、
「私が」何者であるかを主張しなければ、
経済的価値を生み出すことができない。

認められることは、豊かになること。

仕事ができる人には、
それ相当の貨幣が支払われ、

誰かの役に立てる人が、
まず他者から求められていく。

容姿が美しいとなれば、
それもまた経済価値になる。

だからどんな形であれ、誰かや何かに
「認められたい」と感じる時は必然的に
「この私が」という自我意識に縛られます。

あらゆる経済価値が自我に還元されていく。

それが良い悪いではなく、事実として
そういう社会構造の中を生きています。

しかし私たちは本当は、
奥深い部分で知っているわけです。

「わたし」という存在の真相はそもそも、
他人や世間から評価され得る次元軸の中で、
初めから生きてはいないということ。

あなたにとっての本当のリアリティは、
誰からも理解され得ない内面世界にこそ、
生き生きと息づいて在ること。

それ故むしろ逆に!笑
社会の側があなたの素晴らしさを発見し、
どんなにあなたを「認めたい!」となっても
良くも悪くも、本当の意味での「評価」など
誰にも到底、出来はしないこと。

勝手に評価してくる人がいても、
良いという賞賛も、悪いという批判も実は、
あなたのリアリティとは何の関係もない。

冷静に考えれば分かるのですけど・・・

誰が何を言おうと、
ほんと関係ないですよね?

だからそんな伸び伸びとした、
あなた本来の自由な精神から見れば、
「私を」「認めてほしい」自我意識ほど、
窮屈極まりないものってないんですよね。

これが先ほど言及した、
自我の<強烈な不自由さ>の正体。

本来は誰にも認められようのない
自分だけのリアルを生きていながら、
「認められたい」と欲するとは・・・
いやはや道理で、不自由なわけだ。

そのからくりが分かってもなお、
承認欲求の根は、想像以上に深い。

人間活動のベースとして、
あまりに当たり前に染みついた癖だから。

事実こういう発信をしながら私は、
「伝わるかな?」といつも気にしています。

でもやっぱりそこから、
自由になりたいなぁと、私は思うわけです。

じゃあその「あなた本来の自由な精神」
とは何を指すのか?

ここでやっと本題ですが、
それが「霊」と呼ばれるものの話です。

生命の根源にある精神=霊
(レイ/タマ/ヒ/Spirit/Geist)

「霊とは何か?」「魂とは何か?」
について、以前の記事でもいくつか、
私なりの分析を取り上げてみました。

前回の記事に追記したい点としては、
全ての宇宙生命の根源こそが、
霊(レイ/タマ/ヒ)であるという視点。

「霊」があらゆる根源のベースに在り、
そこから「魂」や「体」や「自我」が
生み出される関係、と考えられています。

私が個人的に「宇宙意識」と呼んでいる
ものの別称でもあり、人間の本質核に当たるもの。

霊には全てが含まれる。
ということはつまり、
常に矛盾と調和が混在しているということ。

陰と陽、男と女、始まりと終わり、
生と死、意識と無意識、破壊と再生、
虚像と実像、ミクロとマクロ、善と悪。

ありとあらゆる二元性や多元性が、
ひとつの
円環または球体(タマ)
の中に統合された形に象徴されます。

この視点でいくと霊は、
「個」と「全体」すらも統合しています。

一見矛盾しているようですが、
霊は全体であり、個でもあるもの。

ということは霊は、
『わたし』でもあり『あなた』でもある。

霊としての文脈においては、
「これが正しい」とか「これが良い」という
価値基準が、何の意味も成さないことが
容易に想像できるのではないでしょうか?

日本古来の神道の言葉、
『産霊(ムスヒ)』とは、天地・万物の
生命を産み出す創造のはたらきのこと。

陰と陽の触れ合いと回転運動によって、
産み出されたものが、私たちの命。

同じ言霊の響きをもつ「むすび=結び」
は映画『君の名は』の中では「組紐」
美しく象徴されていましたね。
(まだ観ていない方はぜひ!)

男と女が結ばれることで生まれる人を
「ムスメ」や「ムスコ」と呼ぶ。

「おむすび」は陰と陽を手の平で合わせて
つくり出すから、元気が出る食べ物。

改めて日本語って、凄い言語ですよね。

本来そんな風に、全統合されている
霊(ヒ)である私たちが併せ持つ、
魂や肉体との関係はどうなっているのか?
を見ていきたいと思います。

魂(タマ)と魄(シイ)が分かれた
ところに吾(われ)が生まれた

現代日本語で「たましい」と書くとき、
漢字一文字の「魂」が一般的ですが、

中国の道教や伝統中医学においては、
「魂魄(こんぱく/たましい)」
二文字で表記されていました。

魂(タマ)は陽に属した精神を支える気。

魄(シイ)は陰に属した肉体を支える気。

と考えられていたそうです。

そのタマとシイが2つに分かれた裂け目に、
「自己=わたし」を意味する一人称で、
「吾輩わがはい」などにも使われる言葉
「吾(あ/われ)」が入りこみ、

★吾(ア)と魂(タマ)が繫がり「アタマ」
つまり「こうしなければ」と頭で思考する
「理性」を担当するパートになりました。
男性性原理のはたらきとも言えます。

★吾(ア)と魄(シイ)が繫がり「アシ」
つまり「こうしたい」という肉体の本能的な
「欲望」を担当するパートになりました。
女性性原理のはたらきとも言える。

言われてみると確かに面白いのが、
私たち人間はけっこう常にこの、
「頭」で考える「こうしなければ」と
「足」で感じる「こうしたい」との狭間で
揺れ動き、葛藤している生き物ですよね。

「こうしたい!でもこうしなけば!
どちらも大切にしたいぃぃぃ!」のような。

アタマがアシを管理しようと躍起になると、
何でも思い通りにしなければ気が済まない
コントロールフリークになり、

アシがアタマを貪ってくると、
今さえ楽しければそれでいい!!
みたいな刹那主義に陥っていく。

程度の差こそあれ、「わたし」という
自我はこのアタマとアシの葛藤の間で、
他者からの評価・承認に一喜一憂し、
いとも簡単に誰かの言葉に傷つくわけです。

自我はもうあっという間に、
何からだって簡単に傷つきます。

何度も言うけれど、それが良い悪いではなく
自我のしくみと構造の話をしています。

葛藤して当たり前だし、傷ついて当たり前の
二項対立構造として既に、生きているから。
だから面白いのだとも言えますが。

本来ひとつのものであった「霊」の状態から
頭と体、男と女、精神と物質、理性と欲望、
ありとあらゆる分離を体験する
「魂(タマ)魄(シイ)」が生まれ、

そしてその分離の体験の究極バージョン!が
「肉体を持って生まれた」こと。

いわゆる哲学などで古来から言われてきた
「わたし」であるが故の自我の苦しみは、
この分離の苦しみとも言えると思います。

初めから分離しているから、
どんなに整合性をとろうとしても、
常に自己矛盾と葛藤を抱えるし、
どんなにどんなに模索しても、
「たったひとつの真実」には辿り着かない。

「これがわたしだ!」と確信した先から、
まるで嘘のように虚像となって
白々しく剥がれ落ちてしまうのは、
タマとシイの踊りによるのだから仕方ない。

よく聞く言葉として、
「自信がない」とか「自分を認められない」
という状態はまさに、自我の分裂意識の中に
ドハマりしている状態と言えますね。

元来の自分が「霊」であることを
すっかり忘れてしまっている状態。

「自信がない私」も「自信がある私」も
どちらも含まれた「霊」であるとき、

自信はあるとも言えるし、ないとも言える。
否定も肯定も全てが飲み込まれて、
ただそこに「わたし」が在る。

霊はどちらかひとつに固定できることなど、
万物において何ひとつないと知っている。

自我は常に、どちらかひとつに決めたがる。
どちらも在っていいと、知らなかったから。

虚実はどちらも必要である
いつも矛盾をちゃんと抱えること

霊と魂の自我の関係性、
だいぶクリアになってきましたでしょうか。

簡単にもう一度整理すると、
「霊」は根源という統合であり、
「魂」はその根源から分かれたもの。
「自我」はその分け目に生まれたもの。

「わたし」はこれら全てと一体であり、
同時に全てを俯瞰する意識でもある。

ちなみにあくまで、現在の
私の解釈ですので、その辺はあしからず。

そしてこれは少し分かり難いかも知れませんが、シェアしますと。

「霊」を数学的に表現できるとすると、
ゼロを原点に、+無限大、-無限大に
左右に伸びる実数軸の世界(=リアル)と、

実数軸の世界には存在していない、
ゼロの原点に畳みこまれている、
もう1本の+無限大、-無限大が
上下に伸びる虚数軸の世界(=イマジナル)

とがゼロ地点で十字に交わり、
無限と無限をひとつの円で囲んだ形になる。

意味不明でしたらスルーしてください(笑)

ただここから分かる重要な点は、
円環をつくるためには、虚構と事実、
虚実がどちらも必要であるということ。

どちらが現実でどちらが虚構か?という話は
視座の方向が変われば反転するわけですが、
まぁその辺の突っ込みはさておき。

魂(タマ)と魄(シイ)に分かれた自我を
「霊」というひとつの円に統合するためには
「矛盾」をちゃんと抱える必要があること。

どうでも良さと、どうでも良くなさ。
怠惰さと、勤勉さ。
何も信じない姿勢と、確かに信じる姿勢。
気持ち悪さと、気持ち良さ。
自己欺瞞と、誠実さ。
諦めることと、やり抜くこと。
獣性と、人間性。
イタさと、かっこ良さ。
面白さと、つまらなさ。
悪ふざけと、敬畏。
真実と、嘘。
清廉と、猥雑。

いつも「矛盾」が必要なのだと思います。

あなたにも、わたしにも。

矛盾を許そうとしない、
矛盾を正そうとしたくなる!
自我の誘惑に気づいたら、
矛盾こそ必要なのだと、思い出せるといい。

そしてその、矛盾だらけの「わたし」の中で
ぐるぐる回転しているものは何なのか?

それが面白いものでも、つまらないものでも
何でもいいけど、この中にあるものは全部、
「わたし」だけが味わえる特権をもつ。

外から見て人は好き勝手に言うだろう。

かっこ良いだの、ダサいだの。
興味深いだの、意味不明だの。

好きに言わせておけばいいのである(笑)

わたしの面白さを、
わたしが知っていること。

これ程幸せなことってあるだろうか?!

「わたし」ですらこれ程面白い。ならば
「あなた」などきっとどれ程面白いものか!

そんな想像でワクワクするのは楽しいけど、
「あなた」の本当の面白さをきっと私は、
一生をかけても知ることはないでしょう。

それができるのは、世界でたったひとり、
「あなた」しかいないのだから。

あなたは自分で気づいているより、
さらにもっとずっとずっと面白くてステキ♡

やっと言えた!!
単にこのひと言が言いたかったがために、
記事がめっちゃ長くなった(笑)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

愛知県生まれ。シンガポール在住15年になる一児の母。宇宙意識研究家、フリーライター、組織変革コンサルタント。ひとりひとりが自分の本質へと還る旅を応援するラーニングサロン『Art of Life Script 』代表。個人向けにはありのままのユニークな可能性を拓く個人コンサルテーションを、組織向けには組織としてのパフォーマンスを向上させる組織コンサルテーションを提供している。