死と再生―終わりは始まり―個人的人生の枠を超えて「私たち」の時代を生きる

こんにちは、YURIA Leeです。

個人セッションを実施させていただく中で、
ここ数日は、シンクロ体験の連続です。

当然と言えば当然の現象ですが、
クライアントさんの内的なプロセスが、
私自身への気づきとしても、直接リンクして返ってきます。

8月26日(日)に乙女座の太陽に照らされ、
魚座の部屋で満月を迎えた月はいま。

人類の集合知が溶け込んだ大海原の中を、
変幻自在に泳ぎ回る「魚たち」に優しく、
スポットライトを当てているようです。

ここから9月10日の乙女座新月までは特に、
意識の断捨離と解放に最適なシーズン。

集合意識の海を泳ぐ魚は、
私たちひとりひとりの意識の象徴。

この時期、あなたの心をざわつかせる何か
があるとすれば、それは絶好のチャンス。

私たちの中で、普段は巧妙に隠されていて、
「見えない部分」が、表層意識まで
上がってきてくれているサインだからです。

徹底的な浄化と再構築の時期にあたる今。

自分との向き合いが丁寧であればあるほど、
ここからの数カ月間は続く波への乗り方が
随分とラクになるのではないかと思います。

この記事では、ここ数日の私の気づきを、
思うがままにシェアしたいと思います。

根底から自己否定精神を手放すなら、今が最適なとき

自己否定の解放って大袈裟な話ではなくて。

否定していたことにすら気づかなった、
地味な部分に気づいていくことなんですね。

もう少し実践的な言葉に置き換えると、

無自覚に行っている選択肢のタブーに気づき、それらのタブーにOKを出すということ。

自分の中に、わざわざ「戦うべき敵」を作る必要がないと真に悟り、敵と和解すること。

自己否定の根っこには、あまりにも
当たり前に信じているビリーフが
貼りついていることが多いため、

否定自体に気づくのがまず、結構難しい。

どの人にとっても「それが普通」であって、
ある意味その信念のおかげで成長できたり、
社会的成功に繋がってきたものも沢山あるから。例えば…

  • ポジティブに前向きでいなければならない
    → ネガティブで後ろ暗い、片側にいるもう半分の自分を否定
  • 生産性高く働き人の役に立たねばならない
    → 怠惰で何もできない、片側にいるもう半分の自分を否定
  • 時間には正確でなければならない
    → 遅刻をするなど時間にルーズな、片側にいるもう半分の自分を否定

とまぁこんな具合に、「片側にいるもう半分の自分」をいとも簡単に切り捨てがちな私たちです。

その切り捨て具合たるや、お見事!!と言いたくなるくらい、

鮮やかに華麗に、本人も気づかない程のスピードでバッサリ!瞬殺していることも多いのです。

いつもポジティブで元気いっぱいの人。

それは、片側にいる正反対の半身を受け入れ、全肯定した上での選択なのか?

それとも、無意識下ではネガティブな半身を否定したうえでの選択なのか?

そこには、大きな大きな違いが横たわる。

タブーとして見ないようにしている部分や、
「無かったこと」として切り捨てた部分は、
無意識の底に沈めた場合がほとんどです。

この8月いっぱい、私自身もこれでもかと、

「切り捨てられた側」の自己の半身に、向き合い続けました。

 「切り捨てられた側」の半身とは、例えばこんな感じです:

  • どこまでも怠惰な部分
  • 欲にまみれた醜い部分
  • 気持ち悪い部分
  • 愚かでつまらない部分
  • 変態である部分
  • 打算的で損得勘定ばかりする部分
  • 嫉妬深い部分
  • ダサくてかっこ悪い部分
  • 臆病で自信がない部分

これは書いていると笑えてきます(笑)

変態で、気持ち悪くて、欲にまみれているw

いや真面目な話、言葉にすると面白いし、
ギャグなんだとすら思えますが、

実際にこの「気持ち悪さ」や「醜悪さ」や
「嫌悪感」をアリアリと感じつつ、

それらが自分の中にあるということを、
受け止める作業は強烈だしキツイわけです。

なぜなら、その「気持ち悪さ」はもはや
理屈では説明不能な、生理的嫌悪感に匹敵するものだから。

「生理的に気持ち悪くて無理なもの」は
人によって様々ですが、例えばゴキブリが無理という人は多いでしょう。

ゴキブリと人間の心の話を一緒にしないで!
と思われるかもしれませんが、まぁ聞いてください。

実は、自覚できないレベルの無意識下では、

私たちがそれくらいの圧倒的な嫌悪感を
自分自身に対して抱いているケースは少なくありません。

それが良いとか悪いではなく、
ただ「存在している」ことに気づくこと。

そこに有るものを否定し、存在が無いかの
ごとく無視し続ける行為は、大量のエネルギーを消耗します。

だからまず、気づくことが最初の一歩。

そしてどんな側面に気づいたとしても、

全ては全体に含まれる、
個々の一側面に過ぎないと
知っておくこと。

「あなたそのもの」が気持ち悪いのではなく
「気持ち悪さ」という資質は、あなたが
気づき、扱い方をコントロールできるもの。

  • 認める、肯定する、OKを出す
  • 逃げる、無視する、否定する
  • 全力で戦うべき敵認定する

等々、どう扱うかという自由があるのです。

「気持ち悪さ」にもただ
「OKを出す」という選択肢があります。

かつて私はゴキブリが苦手でしたが、
ある時わざわざ、彼らの存在に過剰反応し、
戦い疲弊する必要もないと気づきました。

そこで、ゴキブリを敵認定するのを止め、
心理的に和解することにしました(笑)

するとどうでしょうw
あれほどあった生理的嫌悪感は収まり、
ただ「居るなぁ」と気づいた時、
落ち着いて対処するだけになりました。

侮るなかれ、ゴキ様のレッスン。

ここはひとつ、シンプルに考えてください。

「〇〇でなければならない」というルールに気づいたら、それを

「〇〇でも△△でもどちらでもいい」に変換してみる。

  • ポジティブでもネガティブでも、どちらでもいい
  • 生産性高く人の役に立っても、のんびり何もしなくても、どちらでもいい
  • 時間に正確でも、正確でなくても、どちらでもOK
  • 献身的であっても、欲深くあっても、どちらでもOK
  • 気持ち良くても悪くても、どちらでもOK

こうなってはじめて、「ねばならない」という強迫観念からではなく、

「じゃあどうする?自分なら何を選びたい?」と問える、選択の自由が生まれます。

どんな選択であってもいい。

何を選ぶのも、完全に自由なのだから。

自分の中にある、どうにも愛せない部分。

愛そう許そうと努力する必要も、
何かと戦う必要もなく。

ただそのままで在っていいし、
愛せなくてもいいとOKを出しませんか。

今回の魚座満月からの浄化月間は、
そうした「無意識下の自己否定」を手放し、
真の自己受容へと向かう絶好の機会。

どんな自分にもOKを出せたとき、
怠惰で醜い自分の一部すら、愛しくて
仕方ないと思える日が、必ず来るのです。

死とは再生であり、新しいサイクルの始まりである

蝶は、幼虫から成虫になる前に、
芋虫であった姿を、一度サナギの中で
完全に溶かす作業を行うそうです。

私は昔、この事実を知りませんでした。

芋虫の姿が成長し、そこに羽や手足が生える
のかと思っていたのですが、違いました。

蝶がサナギの中で自ら起こしていることは、
幼虫だった姿形をバラバラに解体することで
一度死んで、また生まれ直すような、大掛かりなプロセス。

私たち人間も、肉体を持ちながらにして、
同じ人生の中で「一度死んで、また生まれ
直す」ような体験をすることがあります。

「これまでの自分は一体何だったんだ?!」

と叫びたくなるような、
根底から価値観を覆される体験。

これまで築き上げてきた自己イメージや
自分の世界が、何かの一撃であっさりと
崩れ去るような出来事。

実際に死を選ぶまではいかないものの、

「もう死にたい」と思えるほどの絶望や、
死への誘惑に駆られるとき。

そこで思い出せることがあるとすれば、

死とは終わりではない、ということ。

終わりどころか、むしろ思いっきり始まるw

終わったものは、必ずまた新しく蘇る。

姿かたちは変えるかもしれないけれど、
変化変容のプロセスを経て、
新たに再生スタートする。

その意味で、死は再生のプロセスそのもの。

これが腑に落ちると、
死を過剰に恐れる必要はないことが、
理解できるようになってきます。

肉体の死だけではなく、築き上げたものを、
一瞬で解体するような「破壊」についても。

せっかく自分が丹念に築き上げたものを
壊すのは、確かに怖いし、寂しい。

けれども私たちは、否応なしに日々新しく
生まれ変わっているのだし、昨日までの自分はもうここにはいない。

「これが自分」だと大切に育ててきた
自己イメージは、いつだって壊せるのです。

何者でもない私に戻る。

何者でもない自分だからこそ、圧倒的に
「唯一無二の個性」を生きられるのが、
私たち人間の醍醐味でもあります。

潔く壊そう、大丈夫だから。

命は、ちゃんと連鎖していく。

何者でもないあなたのコアにある本質は、

あなたという命の胎児が眠る子宮の中、
へその緒でちゃんと全てに繋がっている。

それは死を超えてなお、失われようがない。

そして魚たちが優雅に泳ぐ、
この意識の海の海水たちが。

羊水となって、優しく自分の中に
注ぎ込まれていたのだと気づく。

寄せては返す波打ち際で、
海の冷たさと温かさを交互に感じながら。

遊んでいる私たちの意識は、
ようやくそこにあった繋がりに気づいて。

今こそ安心して、ずっと握り締めてきた
執着を手放すことができる。

あなたの言葉が、海を泳ぎ、いつか誰かの心に届く

終わった命がまた始まり、命は巡りめぐる。

何者でもない私は、
個人を超越した存在とも言える。

宇宙意識に目醒めるセッションを行う度に、
この感覚を強く感じます。

クライアントさんの意識の海にダイヴすると
そこは「私たち」の集合意識でもある場所。

古代ギリシャ語には「生命」を表す言葉が
いくつかあったそうですが、

BIOS(ビオス)が「生まれてから死ぬまでの肉体をもった命」を表すのに対し、

ZOE(ゾーエー)は「生まれることも死ぬこともない永遠の命」を表す言葉でした。

ビオスが「個体性としての命」ならば、

ゾーエーは「全体性としての命」の象徴。

私たちは、死と再生のプロセスによって、
ビオスとゾーエーの命をどちらも体験していくのでしょう。

この数日間は特に、肉体を持ちながらも、
ゾーエーの海に強力にアクセスできる時期。

そこは、あなたの個人的体験が、
人類全体の財産に変わっている場所。

あなたの言葉や、あなたの踊りが。

あなたの笑顔や、あなたの涙が、
大海を泳いで、いつか誰かの心に届く。

勝手に自己完結していた「個人的人生」の
境界線を、軽々と超えていく。

自分が何者であるのか、
自分さえ知らなくたって、

あなたという存在は、
いつか誰かを光で照らす。

だから何も心配しなくていいのだと思う。

あなたの体験は既に誰かの役に立っている。

あなたがそう望むか否かに関わらず。

そしてまた、「あなたではない何か」に
よって創られたものに、あなたの心は
激しく揺さぶられ、新たな形を与えられる。

自分を確立するために、
いつでも枠を壊せる勇気をもちたい。

自分を明け渡すために、
何かを受容していける勇気をもちたい。

いずれにしても、勇気さえあれば
いつも何とかなるのだ。

自分を確立することと、自分を手放すことは
同じことなのだと思う。

「私」のためではなく、
「私たち」のために生きる時代に。

何気ないあなたの個人的体験が、
私たちにとって、実はすごく重要な、
キーになってくると思うのです。

だからあなたの体験や思いを
過小評価しないで欲しいし、
少しでも何か外に向けて発信することを、
どうか躊躇わないで欲しい。

その言葉を待っている人が、必ずいるから。

今日もあなたに、光が届きますように。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

愛知県生まれ。シンガポール在住15年になる一児の母。宇宙意識研究家、フリーライター、組織変革コンサルタント。ひとりひとりが自分の本質へと還る旅を応援するラーニングサロン『Art of Life Script 』代表。個人向けにはありのままのユニークな可能性を拓く個人コンサルテーションを、組織向けには組織としてのパフォーマンスを向上させる組織コンサルテーションを提供している。