毎朝目が覚めると、同じように一日がスタートする。
それが全く「当たり前ではない」ことを実感する毎日です。
自分にいのちが与えられている
という感覚が、何故こんなにも毎日のように押し寄せるのか、しばらく不思議で仕方ないと思っていたけれどむしろ、
この感覚を感じていない時間(=いのちが当たり前だと思っていた時間)のほうが長かった過去の自分は、感覚が麻痺していたのだなと、今は思う。
生きていること自体が、
疑いようもなく、奇跡。
この実感を、毎日数分でもいいから、大切な人と共有したいと思う。
たとえ今いのちが終わって肉体を去ることになっても、私はきっと後悔しないと思うのは、自分のいのちの姿を、自分自身と分かち合うことができたからじゃないかなと、感じています。
それは自分のすべてが分かったということではなくて、「分からない自分のすべて」が愛しいと思える感覚。
知れば知るほどに、不可解極まりない自分という存在の奥行きに降りていくことに、ほとんどもう躊躇がない。
私が生きていることすら奇跡だから、あなたが生きていることは、あなたにとってどんなに尊いことだろうと思う。
私の活動の根底にある情熱は、ただこの奇跡を、誰かと共有したいという想い。
こんなにも捉えどころも掴みどころもなく、実態のない感覚ではあっても。
あなたが生きているという奇跡は、確かに此処に存在していて。
だから言葉にした瞬間に、どこか不完全になってしまう表現の不自由さを抱えてもなお、言葉を紡いで、何とか伝えようとしているのだと思います。
人は皆、自分だけの音色をもって生きています。
誰ひとりとして、同じ音色を奏でている人はいない。
すごくすごく似ているように聴こえる音でも、突き詰めて聴いていくと、根底には全く違う音が流れている。
宇宙全体は協奏曲を奏でていて、私たちはその、雄大な交響楽団の一員。
これは何かのロマンティックな例え話ではなくて、私の耳が実際に聴いた、現在進行形のリアルな現実。
私は本来、私の音しか奏でることができないから、誰かの音を真似ようとしても、どう頑張っても、不協和音になる。
何をどうジタバタもがいても、私は私の音に降参するしかない。
私は私の音を全肯定するしかなくて、ただ素直に周りの音と、交わり合うことを許したとき。
ようやく、ちゃんとシンフォニーの一部として、鳴り始める。
音に境界線がないように、私たちと世界とのあいだにもまた、境界線はない。
私は世界の一部であり、大いなる世界は私の一部。
自分の根源につながるということが、宇宙とつながるということ。
宇宙とつながるということは、何も特別なことではなくて。
全部ひっくるめて、あなたがこれ以上なく「あなたである」ということを、許しさえすれば。
音はひとりでに流れ始める。
自分が自分であることを想い出す。
誰にも証明しなくても、自分だけが知っている。
自分の喜びも、自分の痛みも、割れるような叫びも、抑えきれない衝動も。
自分のがんばりも、自分の自堕落も、自分の卑劣さも、自分の純粋さも。
すべてを見ている、わたしの瞳。
自分の中に、神さまがいる。
すべてを知ってなお、その慈愛の中に讃え育んでくれる、神がいることを。
あなたは知っている。
何ひとつ身にまとわず、武器ももっていないあなたが。
とても美しい姿で、颯爽と生きていることを。
あなたが生まれる前からずっと、見守っているその瞳の中に。
あなたがいることを。
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